55年前の判決に囚われる筆跡鑑定:なぜ日本の司法は科学を軽視するのか

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今から55年前、昭和41年に下された最高裁判所の判決が、未だに筆跡裁判に根強く影響を与えています。日々進歩するはずの科学分野である筆跡鑑定が、半世紀以上も進歩することなく、むしろ後退しているのが現状です。そして、その筆跡鑑定を評価するのは、科学者ではなく、科学とは無縁の法曹関係者という、信じられない現実がまかり通っています。

もしコロナワクチンの効果を検証する人物が、科学者や研究者ではなく法曹関係者だとしたら、それは恐ろしい事態となるでしょう。それと同じことが、筆跡鑑定の分野で起こっているにもかかわらず、誰もその異常さに気づいていません。


狂い始めた司法:研究成果が「にわか知識」で排除される現実

私は筆跡鑑定が大好きで、十数年にわたり一日中そのことを考え、毎日鑑定を行いながら課題の研究に取り組んできました。その研究成果をこのブログで発信し、誰にも負けない知識と鑑定精度を誇ると自負しています。

しかし、筆跡鑑定に何の興味もなく、にわか知識しかない権力者が、判例という「常識」に染まった眼鏡をかけながら、私の鑑定書にざっと目を通しただけで、「類似しているから同一だ」「筆跡は時と場合によって異なるから限界がある」と、私の鑑定書を一瞬にして排除するのです。これは、もはや狂っているとしか言いようがありません。こんなことでは、善良な方々の大切な財産や権利が、一瞬にして奪われてしまいます。


「常識」が阻む科学の発展:筆跡鑑定に未来はあるのか

科学の世界では、「常識」が時に科学の発展を阻害することがありますが、新しい知見によってその常識は塗り替えられていきます。しかし、司法の世界では、過去の判例が「常識」となり、それが絶対視されます。これはまさに水と油であり、司法の評価が科学よりも優位に立っている筆跡鑑定においては、判例という常識が重要視され、常識から逸脱する新たな研究に基づく理論は「スルー」されてしまうのです。

つまり、古い常識はいつまで経っても消えることがありません。半世紀以上前の判例が未だに根強く残っていることが、その何よりの証拠です。科学の世界ではありえないことが、司法の場では平然と起こっているのです。残念ながら、このままでは筆跡鑑定に未来はないでしょう。


科学警察研究所への切なる願い:善良な人々を救うために

日本の筆跡鑑定技術の物差しとなるべき「科学警察研究所 情報科学第二研究室」の皆さん。日々筆跡鑑定の研究に取り組んでいらっしゃる皆さんには、しっかりと仕事をしていただきたいと切に願います。

一刻も早く、「筆跡鑑定の証拠能力は高く、限界などありません」と公に表明してください。多くの善良な方々が、筆跡裁判で涙を流しているのです。どうか、その声を無視しないでください。

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