こんにちは!今日、ちょっとくだけたブラックジョークというか、世の中の「不可解な現実」に切り込むお話をしちゃいます。
皆さんは、「筆跡鑑定」と聞くと、シャーロック・ホームズみたいに虫眼鏡を覗いて、「これは本人のものに間違いない!」と鮮やかに真相を解き明かすイメージですよね?
…ところがどっこい、鑑定業界の一部の界隈では、「公開検証」という名の真実の場で、なぜか皆がそそくさと身を引くという、奇妙な現象が起きているのをご存知でしょうか?
なぜ公開検証に参加しないのか?答えはシンプル、そして残酷
ズバリ言います。私が知る限り、彼らが公開検証(つまり、第三者立会いのもと、「偽造されたと見破れるか」を試される場)に積極的になれない、最大の理由。それは…
「巧妙に書かれた模倣筆跡には、歯が立たないから!」
え、嘘でしょ?鑑定のプロなのに?と思うかもしれませんが、これが現実です。
考えてみてください。筆跡鑑定士は、文字の「カタチ」や「書き癖」を見て判断します。しかし、人間の手というのは、訓練次第で見た目のカタチなら、いくらでも真似できてしまうんです。
〇〇様が書いた「あ」の模倣
例えば、あなたが有名な社長〇〇様の筆跡を真似て、遺言書の一文「全ての財産を愛猫タマに譲る」と書いたとしましょう。
- 見た目(形態)の模倣: 形をそっくりに真似る。社長が「あ」を書くときの「ハネ」の角度、「払い」の長さ、「右上がり具合」を徹底的にコピーします。
- プロが指摘する「個性」の模倣: 従来の鑑定士が注目する「筆圧のバラつき」「線の揺れ」「始筆・終筆の微妙な癖」も、徹底的に練習して「真似て書いた」痕跡を消し去る。
これは、プロの画家が有名な絵画を模写するのに似ています。細部にまでこだわって真似をすれば、「見た目のカタチ」だけでは判別不可能なレベルに到達してしまうんです。
「筆跡個性」という名のブラックボックス
筆跡鑑定のプロは「いやいや、見た目だけじゃない!筆癖(ひつへき)、つまり無意識に出る文字の個性が必ず出る!」と反論します。
確かに、誰もが持つ無意識の書き癖、これが彼らの命綱です。しかし、もし偽造者が、その「癖」が出る部分(例えば、文字の角の丸みや、筆記具を紙に置くときの最初の点)すら意識的にコントロールし、「本人が無意識に出していた癖」を、偽造者が「意識的に再現」したらどうなるでしょう?
「真似のプロ」と「鑑定のプロ」が真剣勝負したら、結局は「どちらがより巧妙か」というイタチごっこになり、最終的には「見破れない」という結果に終わる可能性が出てきてしまうのです。
不可解な現実:なぜこの鑑定法が“現役”なのか?
さあ、ここからが一番面白い、そして不可解な現実です。
「巧妙な模倣には歯が立たないかもしれない」という根本的な弱点があるにもかかわらず、日本の裁判の場では、いまだに筆跡鑑定が重要な証拠の一つとして採用され続けているのです!
【具体例】謎が謎を呼ぶ鑑定合戦
裁判ではよく、原告側と被告側がそれぞれ別の筆跡鑑定士に鑑定を依頼し、「これは本人の筆跡だ!」と「これは偽造されたものだ!」という、正反対の鑑定書が同時に提出されることがあります。
裁判官:「えーと、A先生は『本人の特徴が15点認められる』、B先生は『偽造の痕跡が20点見られる』と。…結局どっちなんだ?」
裁判官から見れば、これはまるで、「水と油、どっちが正しいか証明せよ!」と言われているようなもの。科学的根拠が乏しいため、鑑定結果そのものが絶対的な決定打にはなりにくい、というのが実情です。
にもかかわらず、この鑑定法が依然として「主流」となっているのは…
- 他に手段がない: DNA鑑定のように確実な科学的証拠がない場合、とりあえず「プロの意見」が必要だから。
- 「素人レベルの模倣」には強い: ほとんどの偽造は素人によるもので、それなら鑑定士は楽勝で見破れるから。
- 「伝統」と「慣習」の力: 昔から使われてきた手法であり、裁判官も弁護士も「とりあえず鑑定してみる」という慣習から抜け出せないから。
まとめ:公開検証を避ける鑑定士のホンネ(想像)
公開検証に参加しない鑑定士の心の声(想像)は、きっとこうでしょう。
「わざわざ、私の鑑定技術の限界を、衆人環視の中で証明する必要はないでしょう?私だって生活がかかっているんです。素人の偽造はバッチリ見破りますから、どうかお静かに…」
筆跡鑑定は、「見た目のカタチ」を真似されてしまうと、実は非常に危ういという一面を抱えています。この不可解で面白い現実を知ると、遺言書を書くのがちょっと怖くなりますよね。
私も愛猫タマのために、今から筆跡を真似されないよう、崩して書く訓練を始めようかな…なんて(笑)。
皆さんも、「見た目そっくりだけど、信憑性は…?」という筆跡鑑定のブラックボックス、ちょっと覗いてみませんか?


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