私は他人の筆跡を瓜二つに書くことが出来ます。
もし,私が遺言書を本人の筆跡そっくりに書いたら,「伝統的筆跡鑑定法」や「計測的鑑定法」などの類似鑑定法では「同一人の筆跡」と判断されます。このことについて意見があれば,実験検証しても構いません。
人の筆跡を巧みに似せて書ける人は,私に限ったことではありません。街中に「似顔絵師」が大勢いるのと一緒です。
腕のある者は,他人の筆跡を巧妙に似せて書くことができます。当たり前のことを言いますが,似せて書けば似るのです。ましてや,腕のあるものは瓜二つに書けるのです。
こんな簡単なことも分からず,筆跡鑑定人と名乗っているのですから筆跡鑑定の信憑性が低下し続けるのは当然です。
多くの鑑定人は他人の筆跡を似せて書くことができないようです。なぜなら,腕のある者は「類似性が高い=本人筆跡」という思考には間違いなくなりません。この鑑定ロジックでは,自分が似せて書けば真筆と判断されることを知っているからです。そもそも,似せて書かれた可能性のある筆跡を「類似性」で判断することで筆者識別ができると考える思考回路が全く理解できないのです。
裁判所ですら,こんな鑑定書が次から次へ提出されても否定する裁判官は少ないようです。「似せて書くから似るのは当然,類似・非類似で筆者識別はできない」と一蹴しないことが不思議でなりません。「類似性が高い=本人筆跡」とでも思っているのでしょうか。
「長期間にわたって伝統的筆跡鑑定法が採られてきたことは,この鑑定法にそれなりの信用性があるからだ」と言った鑑定人がおりましたが,それは大きな誤解です。
「ピロリ菌が胃がんと全く関係がない」と何十年も言われてきた「常識の嘘」と同じです。また,天動説もそうでしょう。科学とは,何十年も続いてきた常識が簡単に覆るものなのです。「常識の嘘」に強く拘束されているのがまさに今の多くの鑑定人と裁判所です。
そもそも,筆跡鑑定は類似性を追求する品評会ではありません。伝統的筆跡鑑定をはじめとする類似鑑定法はすでに終焉を迎えているのです。皆さまが,いち早く気づいていただけますよう願っております。
脳科学的筆跡鑑定法の誕生
人は文字を無自覚で書くことが出きます。この人体のメカニズムは,脳科学の発展に伴い1990年代になってようやく手続き記憶に大きく関与していることが分かってきました。手続き記憶は,書字の他にもブラインドタッチ,ピアノ・ギターなどの様々な楽器の演奏,箸の持ち方,ゴルフのスイング,ピッチングフォーム,自動車・自転車・バイクに乗れる等があり,人の運動動作ををスムーズにするための無自覚性のある運動の記憶です。
手続記憶は,繰り返しの練習によって形成されます。文字を覚えるときに,繰り返し書いて覚える漢字ドリルを使った方は多いのではないでしょうか。楽器の演奏も,うまくなるまで繰り返し練習します。この繰り返しの運動が一定程度行われると,複雑な運動が無自覚で行えるという手続き記憶に移行されます。卓越した演奏ができるのは無自覚であるからこそなのです。
脳科学的筆跡鑑定法とは,これまでの筆跡の形状という視点ではなく人の運動動作に視点を当てた,手続き記憶を応用した科学的筆跡鑑定法です。具体的には,人の運動癖や運動軌道の違いから筆者識別を行うという新しい考え方です。とりわけ,我が国は画数の多い漢字を使う文化があります。画数が多ければ手の運動も複雑になります。すると,複雑故に本人固有の運動癖が数多く出現し,その運動癖は書き癖となって可視化されます。即ち,一般には気が付きにくい微細な本人の書き癖を数多く特定し,それが鑑定資料に出現しているかを調査すればよいのです。私は,本人の微細な書き癖を数秒から数分で特定できますので,後はその書き癖が鑑定資料に出現しているかどうかを調査するだけです。よって,非常に正確かつスピーディに調査が行えるのです。
筆跡鑑定人であれば,「筆順の相違」が強い異筆要素になることは知っている筈です。残念ながら,類似鑑定法を採っている鑑定人は,これを突き詰めたことがないので手続き記憶を知りません。強い異筆要素と主張しても,相手方の「人は時と場合によって書き方が変わる」という詭弁によって簡単に反論され応酬すらできないのです。
手続き記憶を理解していれば反論は容易です。例えば,旧字の「者」は[日]の上に点があります。高齢者の方は,[日]の上の点を書こうという意識はありませんが,きちんと点のある文字を書きます。誤字や特異筆順も同様に何度書いても再現されます。つまり,同じ人物が同一文字を書けば手の運動動作は,無自覚でありながらもほぼ同じ軌道を辿るのです。これが筆跡に「恒常性(常同性)」が現れる所以です。脳科学で解明された手続き記憶は筆跡鑑定で大きく役立つ理論なのです。