私が他所の筆跡鑑定人を憎む理由

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筆跡鑑定書は,筆跡鑑定の知識がなくとも読み進めることが可能である。裁判官を含む多くの方は「なるほど,共通しているな」とか「そう言われれば相違しているな」と思いながら読んでいるのではなかろうか。どんな鑑定書であっても,「第●画の長さが類似(共通)している」とか「撥ねる運筆が類似(共通)している」,「転折部を丸く運筆し類似(共通)」という事実が沢山書いてあるのだが,多くの方は一生懸命にそのあら捜しをすることで鑑定書の優劣を見極めようとしている。

ところが,こんなことをしても筆跡鑑定書の優劣の判断はできないのである。そもそも,鑑定書の優劣を測る視点が間違えているのからである。この馬鹿げたことを繰り返している本質は,読み手が筆跡鑑定の基礎知識がないことに起因しているからに他ならない。技術力の高い(正答率の高い)筆跡鑑定人が,裁判官の方への講習などを行えばよいのだが,裁判所はどの鑑定人の実力が高いのかすら分からないからそれができない。したがって,これまでと変わらず「双方で異なる鑑定結果の出る筆跡鑑定書は信用できない」と短絡的な判決文を書くことになる。

裁判官の方が鑑定書の有効,無効の判断がつけられないという事実は,過去の裁判の事例からも嫌というほど経験してきた。「筆跡鑑定書はどこも一緒」という裁判官の強い固定観念から,理屈の通った鑑定書も稚拙な鑑定書と同等と見られていることは間違いない。伝統的筆跡鑑定法も脳科学的筆跡鑑定法も区別がつかないことに大きな問題があるのである。

そうはいっても,「水」の”第1画が撥ねるから一致”とか「り」「つ」の”最終画を払っているから一致”とか,標準に書く書き方を指摘し同筆要素としている鑑定人が後を絶たない。いくら何でもこの稚拙さは見落とさないであろう。

私が他所の筆跡鑑定人を憎む理由は,このような稚拙な(伝統的筆跡鑑定で書かれている)筆跡鑑定書が次から次に裁判所に提出されていることにある。非常に稚拙な内容であることから,次第に裁判所が筆跡鑑定書の信用性を否定するようになったのである。その挙句,どの筆跡鑑定法であっても証拠能力に限界という判例まで作ってしまう始末である。

ブログに書いているこれまでの筆跡鑑定法と脳科学的筆跡鑑定法の違いをよく理解されれば,筆跡鑑定の優劣など容易に判断できるのである。

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