平成12年の東京高裁判決が最悪である理由

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今なお,善良な方を苦しめ続けている平成12年の最悪の判例について解説します。分かり易いように,この判例が出る前までに主流であった最高裁の判例と比較しながら解説させていただきます。まずは,昭和40年の最高裁判決です。

<昭和40年2月21日最高裁判決>

いわゆる伝統的筆跡鑑定法は,多分に鑑定人の経験と感(勘)にたよるところがあり,ことの性質上,その証明力には自ら限界があるにしても,そのことから直ちに,この鑑定方法が非科学的で,不合理であることはできないのであって,筆跡鑑定におけるこれまでの経験の集積とその経験によって裏付けられた判断は,鑑定人の単なる主観に過ぎないもの,と言えないことはもちろんである。

この判例は筆跡裁判では非常に有名で,弁護士の方であればご存じの方も多いと思います。伝統的筆跡鑑定法は勘と経験に頼ることがあり証明力に限界があることを認めながら,一方では当時の鑑定人の経験の集積と経験に裏付けられた判断は,単に主観とは言えないと判断されています。想像するに,当時は然るべき実績を積んだ警察捜査員が鑑定書を作成したことから,勘と経験は蔑ろには出来ないということでしょう。因みに,現在の鑑定人のほとんどは,伝統的筆跡鑑定法のマニュアル通りに鑑定書作成しているだけなので,後半部の「経験の集積とその経験によって裏付けられた判断は,鑑定人の単なる主観に過ぎないもの,と言えない」は,もはや時代錯誤となっています。

<平成12年10月26日東京高裁判決>

筆跡の鑑定は、科学的な検証を経ていないというその性質上、その証明力に限界があり、特に異なる者の筆になる旨を積極的にいう鑑定の証明力については、疑問なことが多い。したがって、筆跡鑑定には、他の証拠に優越するような証拠価値が一般的にあるのではないことに留意して、事案の総合的な分析検討をゆるがせにすることはできない。

最高裁判決では「伝統的筆跡鑑定法は・・・」と始まっているのに対し,東京高裁判決では「筆跡の鑑定は…」と主語が入れ替わっています。これでは,新たに科学的な筆跡鑑定法が開発されても「証明力に限界」と断じ続け筆跡鑑定の未来はないことになります。司法の分野では「判例」が後(のち)の裁判で重視されるため,時代とともに進化する科学の分野である筆跡鑑定においては慎重に取り扱う必要があります。「証明力に限界」「特に異なる者の筆になる旨を積極的にいう鑑定の証明力については、疑問なことが多い」という主旨は当職の否定している「伝統的筆跡鑑定法」や「計測的鑑定法」のみに通用するものであり,「脳科学的筆跡鑑定法」には通用しません。ですから,この判例の主語を「筆跡の鑑定は・・・」としてはならず,「伝統的筆跡鑑定法や計測的手法とは…」とするべきなのです。主語を置き換えたことで「脳科学的筆跡鑑定法」の趣旨を理解されないまま,当職の鑑定書の内容について「証拠能力に限界」と決めつけ,私の筆跡鑑定書が軽視され続けています。「筆跡鑑定とはそういうもの」という固定観念に強く拘束されていることを裏付けています。

それでは,なぜこのような問題が生じるのでしょうか。それは,科学とは無縁で専門外であるはずの司法が,日進月歩する科学の分野に口を出し,裁判官の取り扱った僅かな事例から「証明力に限界」と言い切っていることにあります。このように結論付けるためには,経験を積んだ正しい鑑定ができる専門家による膨大なデータによる統計的な検証や鑑定内容の精査が必要です。即ち,にわか知識しか身に着けていない裁判官が「筆跡鑑定結果を裁判官の心証で判断」していることに大きな過ちがあるのです。

また,この判例にある「特に異なる者の筆になる旨を積極的にいう鑑定の証明力については、疑問なことが多い」ということですが,どの程度の数の事例から判断されているのか疑問です。少なくとも,「脳科学的筆跡鑑定法」では,この事例はありえず証明することも可能です。

最後に最も重要なことを書きます。この判例にある「筆跡鑑定には、他の証拠に優越するような証拠価値が一般的にあるのではないことに留意して、事案の総合的な分析検討をゆるがせにすることはできない」という箇所です。分かり易く言うと,「筆跡鑑定は状況証拠よりも証拠能力が高いことはない」と言っているのです。本当なのでしょうか?アーカイブから検証してみます。※「ゆるがせにすることはできない」とは,物事をいい加減にしたり,疎かにしたりしないという意味です。

赤枠の筆跡が「本人の筆跡」と判断された驚くべき事例について解説いたします。人が字を書く時,どんな記憶によってそれが可能となるのでしょう。書字行為は手続き記憶と呼ばれている記憶に大きく関与しています。この記憶は,繰り返しの運動を一定程度繰り返すと,今度は無自覚性のある手続き記憶に移行されます。この記憶は書字行為の他,楽器の演奏やブラインドタッチ,ゴルフのスイング,箸の持ち方など,我々の多くの運動をつかさどっている記憶です。我々がスムーズに行動できるのはこの記憶のおかげなのです。

書字行為に当てはめれば「同じ人物が同じ文字を書けば,その手指の運動は無自覚性を伴いほぼ同じ軌道を辿る」のです。分かり易い事例でいえば,おとうさんとお母さんの字は小学生の高学年くらいになればどちらが書いたのか容易に判別出来ます。これは両親が,それぞれ無自覚性のある別々の手指の運動軌道から文字を書いているからなのです。したがって,書字が手続き記憶に大きく関与していることを知っていれば,青枠の本人の運動軌道によって書かれた筆跡は,赤枠の運動軌道とは全く別の軌道で書かれた「別人の筆跡」ということはすぐに気づく筈です。なぜなら,お母さんがお父さんの字と似た筆跡を無自覚では書けないからです。その逆も同じです。同一人物が無自覚で書く筆跡に,2つの別々の運動軌道で書かれた筆跡が出現することはあり得ません。即ち,書字が手続き記憶に大きく関与することさえ知っていれば,これが同一人の筆跡と言える筈がないのです。因みに,この筆跡は100%偽造であることをたった5秒で見抜いた極めて稚拙な偽造筆跡です。判決が下るまでなんと1年以上かかり,その挙句に「同一人の筆跡」という判決が下ったのですからびっくり仰天です。それに加えて,伝統的筆跡鑑定法を採用しているある鑑定所から「同一人の筆跡」というとんでもない鑑定書まで提出されているのですから,もはや日本の筆跡裁判は狂っているというほかありません。まんまと裁判官が悪人に騙されている紛れもない証拠です。状況証拠が判決に役に立つほど証拠能力が高くはないことを強く示唆している事例と言えます。

さらに言います。

この事例から,脳科学的筆跡鑑定法の証明力が高いことを述べてみます。赤枠の筆跡は遺言書の偽造筆跡です。この遺言書の筆跡が,東京地裁,東京高裁共に「本人の筆跡」と判断されました。私の依頼人が数億円以上の財産を悪人に奪い取られた何とも悲しい判決です。裁判所が私の書いた筆跡鑑定書の内容をよく理解してさえいれば,このような悲劇は生まれなかったでしょう。この方の残りの人生は悲惨なものとなりました。もう彼らの後ろ姿は二度と見たくはありません。民事裁判と言えど,個人個人にとっては死活問題なのです。因みに,これも伝統的筆跡鑑定法を採用している鑑定所から「同一人の筆跡」という鑑定書が出されています。

繰り返しますが,同じ人物が同じ文字を書けば,その運動はほぼ同じ軌道を辿ります。したがって,無自覚性のある軌道は筆順に強い影響をもたらせます。上記の青枠と赤枠の筆跡は筆順が異なっています。筆順は,無自覚性のある運動軌道によって強く固定化されます。したがって,書字が手続き記憶であることさえ知っていれば,これが異筆であることは容易にわかった筈です。さらに,の箇所にたくさんの加筆があることが分かります。自然筆跡にもごく稀に出現することはありますが,3文字にたくさんの加筆が出現することは自然筆跡では考えられません。即ち,書字が手続き記憶に大きく関与することを理解され,それに加えて自然筆跡には現れることのない「隙間を埋める多くの加筆や筆継ぎ」を鑑みれば,これが同一人の筆跡であると言える筈もないのです。これが筆跡鑑定の状況証拠に優越する証拠能力の高さです。

私の作成した裁判所に提出した数百の鑑定書にもこのような重要な証拠となる事案をたくさん書いています。「筆跡鑑定が事案の総合的な分析検討をゆるがせにすることはできない」とは到底言えない筈です。今も,多くの裁判官が悪人にまんまと騙され続けているのです。このことは,状況証拠であっても証拠の力に限界があるのであることを示唆し,筆跡鑑定のみが軽視されることは許されるべきものではありません。正しい筆跡鑑定であれば状況証拠よりも優越する証拠能力の高いものもたくさんあるのです。

残念ながら,この判例によって私の書いた筆跡鑑定書が理解されることなく「筆跡鑑定の証明力に限界」「筆跡鑑定には、他の証拠に優越するような証拠価値が一般的にあるのではないことに留意して、事案の総合的な分析検討をゆるがせにすることはできない」という固定観念に強く拘束された結果,たくさんの方が不当な判決によって,権利も財産も悪人に奪い取られているのです。

私が,善人の方の権利と財産が失われることのないよう精魂込めて作成した鑑定書が「筆跡鑑定の証拠能力に限界」という判例によって,理解すらされずに無力なものとなっています。そして,決して安くはない鑑定書作成料金を工面した依頼者にとっても非常に悲しい現実があるのです。悔しいことに,現在の筆跡鑑定の現実はこういうことなのです。本当に,いい加減にしてもらいたいのです。

何度も言います。科学によって導き出された筆跡鑑定結果を裁判官の心証で判断してはならないのです。そして,この判例は「筆跡鑑定の証拠能力に限界」と述べたことにより,結果的に筆跡の偽造を助長することになりました。偽造者に「そうか筆跡鑑定では偽造が見抜けないのか」ということを知らしめたのです。更には,正しい筆跡鑑定が重要な証拠になる可能性があるものを,まるで「筆跡鑑定の手法は伝統的筆跡鑑定法である」というような強い固定観念から「筆跡鑑定をやるのは自由だが,お金を掛けてまでやるのかどうか,裁判所は重視しないことを知ったうえでやってほしい」と目を疑うような発言し,重要な証拠となる可能性のあるものを排除するような態度をとっています。こんなことが許されるのでしょうか。筆跡鑑定を取り巻く環境は本当に腐り切っているのです。

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