先般,作家太宰治の直筆原稿が見つかったという記事がありました。筆跡鑑定や筆致,遂行方法や書き込みの多さ等から直筆と判断されたようです。
そこで,当職も筆跡鑑定をしてみることにしました。
この鑑定で,最も重要となるのが書字スピードの調査です。もし,この原稿が偽造筆跡であれば,偽造者は(太宰治の)直筆を隣に置き,筆跡の特徴などを真似て書くことでしょう (臨書)。さもなければ,下から光を当ててなぞり書きをする方法も考えられます(透写)。
しかしながら,偽造筆跡であるとすれば微細な特徴を含む多数を真似て書くことは非常に困難です。それに加え,模倣に集中すれば書字スピードが遅滞し画線の張り(筆勢)がなくなります。一方,速く書けば似せて書くことは困難であり,その挙句には偽造者の書き癖までもが露呈してしまいます。
そこで,この鑑定の要となる書字スピードを調査しました。

さすがにこの画像を見て,ゆっくりと書いた筆跡と思う方はいらっしゃらないでしょう。むしろ,やや速いスピードで書かれたものという方が多いのではないでしょうか。お分かりの通り,このスピードでは微細な箇所を含む多くの本人書き癖を真似て書くことはできません。巧妙に模倣筆跡が書ける当職ですら,このスピードでは無理です。つまり,(偽造筆跡であれば)偽造者は似せて書けば筆速が遅くなり,書字スピードを上げれば似せて書けないという板挟みにあうわけです。すなわち,今回の筆跡鑑定の重要なポイントは,書字スピードが速いことから太宰治の直筆から恒常性のある多くの本人の書き癖を特定し,それがこの原稿に出現しているかを調査をすれば,筆跡の異同判断は容易に行えるということになります。これが偽造筆跡の限界なのです。 つまり,筆跡特徴の恒常性から判断した太宰治の書き癖が,多数出現していれば本人の直筆,出現していなければ偽造された別人の筆跡という理屈が成り立ちます。そこで,この調査を行っていきたいと思います。まずは本人の書き癖を調査するため,なるべく多く書かれている文字で調査することになります。共通文字が少なければ,その特徴が書き癖なのか,たまたま出現した特徴なのかの区別がつかないからです。
⑴「れ」の文字について

上図青枠内の文字は太宰治の真筆です。そして赤枠内が今回発見された「雀」の原稿から取り上げた筆跡です。
①aで指摘した箇所は第1画の長さです。直筆は,恒常的にこの長さを標準よりも短く書く書き癖が出現しています。この書き癖は,「雀」の原稿の筆跡にも現れています。
②bで指摘した箇所は第2画の高さです。直筆は,恒常的にこの高さを標準よりも低く書く書き癖が出現しています。この書き癖は,「雀」の原稿の筆跡にも現れています。
③cで指摘した箇所は第2画の第2折れ部から下の運筆方向です。直筆は,恒常的にこの運筆方向は右下方向に運筆する書き癖が出現しています。この書き癖は,「雀」の原稿の筆跡にも現れています。
④dで指摘した箇所は第2画の第1画との交差位置です。直筆は,恒常的に交差部は第1画の下方で交差する書き癖が出現しています。この書き癖は,「雀」の原稿の筆跡にも現れています。
では,これらの書き癖は「ありふれた書き癖」なのでしょうか?ありふれた書き癖であれば,多くの人が書くので同筆(同一人の筆跡)の根拠にはなりません。つまり,この書き方が希少性のあるものに限ってはじめて同筆の根拠と言える訳です。そこで上図の右図をご覧ください。当研究所の所有する筆跡データベースです。このデータベースを使って希少性を判断しています。すると,a,b,c,dのすべてを一致させて書く人は100人中7人の方(〇で囲った筆跡)しかいないことが分かります。すなわち,一致する確率はおよそ7%程度しかない「やや希少性のある書き癖」が両資料に見られたことになります。
⑵「が」の文字について

①aで指摘した箇所は第1画の形状です。直筆は,恒常的にこの画を[つ]に近い形状で,且つ標準よりも小さく書く書き癖が出現しています。この書き癖は,「雀」の原稿の筆跡にも現れています。
②bで指摘した箇所は第3点画と濁点の幅です。直筆は,恒常的に第3点画と濁点を幅広く書く書き癖が出現しています。この書き癖は,「雀」の原稿の筆跡にも現れています。
上図の右図をご覧ください。a,bの両方の書き癖を一致させて書く人は100人中誰もいないことが分かります。すなわち,一致する確率がおよそ1%にも満たない希少な本人の書き癖が「雀」の原稿にも現れていたことになります。
⑶「な」の文字について

①aで指摘した箇所は第2画の長さです。直筆は,恒常的にこの長さを標準より長く書く書き癖が出現しています。この書き癖は,「雀」の原稿の筆跡にも現れています。
②bで指摘した箇所は第4画の起筆部以降の運筆です。 直筆は,この画を恒常的に右に凸となる湾曲状で書く書き癖が出現しています。この書き癖は,「雀」の原稿の筆跡にも現れています。
③cで指摘した箇所は筆跡全体の形状です。直筆は,標準と異なり,縦長に書く書き癖が出現しています。この書き癖は,「雀」原稿の筆跡にも現れています。
上図の右図をご覧ください。a,b,cのすべての書き癖を一致させて書く人は100人中4人(〇で囲んだ筆跡)しかいないことが分かります。すなわち,一致する確率がおよそ4%の希少性の高い書き癖であることが分かります。すなわち,「希少性の高い書き癖」が両資料に見られたことになります。
⑷「だ」「思」の文字について

・「だ」の文字について
①aで指摘した箇所は第2画の角度です。直筆は,恒常的にこの長さを標準よりきつい角度で書く書き癖が出現しています。この書き癖は,「雀」の原稿の筆跡にも現れています。
②bで指摘した箇所は第2画~第4画までの形状です。 直筆は,第2画~第4画までを「ん」に近い形状で書く書き癖が出現しています。この書き癖は,「雀」原稿の筆跡にも現れています。
③cで指摘した箇所は濁点の位置です。直筆は標準と異なり,濁点は第1画よりも上方に書く書き癖が出現しています。この書き癖は,「雀」の原稿の筆跡にも現れています。
・「思」の文字について
①aで指摘した箇所は第2画の縦画の長さです。直筆は,恒常的にこの長さを標準より短く書く書き癖が出現しています。この書き癖は,「雀」の原稿の筆跡にも現れています。
②bで指摘した箇所は「心」部の形状です。 直筆は,「心」部を固有性の高い書き方で書く書き癖が出現しています。この書き癖は,「雀」の原稿の筆跡にも現れています。
この2文字についてはデータベースがないことから,希少性までを明示することはできませんでしたが,これまで指摘した書き癖は全部で15箇所にも及びます。つまり,「雀」の原稿の筆跡を偽造者が書くには,15箇所の微細な箇所を含むすべての書き癖を特定できる鑑定眼が必要であり,且つその書き癖のすべてをやや速い速度で真似て書くことが必要です。さらには,その書き癖のほとんどはありふれたものではなく,希少性の高いものがほとんどなのです。すなわち,こんな神業は誰にもできないということになります。よって,太宰治の筆跡であるが故に「雀」の原稿の筆跡に彼の書き癖のすべてが出現していたことになります。したがって,この「雀」の原稿の筆跡は「太宰治の真筆」であることに間違いありません。
当研究所代表 筆跡鑑定人 二瓶 淳一 が鑑定いたしました。

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