遺言書、契約書、あるいは差出人不明の匿名の手紙…。そこに書かれた文字が、本当に本人が書いたものかどうか、どうやって見分けるのでしょうか?
「筆跡鑑定」と聞くと、鑑定人が虫眼鏡を片手に、複数の文書をじっくり見比べる姿を想像するかもしれません。確かに、それが従来の鑑定方法の基本です。
しかし、もし比べるための本人の筆跡(対照資料)がほとんどないとしたら、どうでしょう?
実は、それでも筆跡の真偽をかなりの精度で推測できる、驚きのロジックが存在します。今回は、その脳科学的な根拠と、具体的な事例を交えて解説します。
なぜ筆跡に「書き癖」が出るの?
まず、筆跡鑑定の基礎にあるのは「脳」の働きです。
文字を書くという行為は、実は脳に深く刻まれた「手続き記憶」という無意識のスキルによって行われています 。これは、自転車の乗り方や楽器の演奏のように、何度も繰り返すうちに身体が勝手に覚えてしまう記憶のことです 。
この手続き記憶は、私たちの意識とは無関係に、スムーズで安定した運動を生み出します。その運動パターンは、主に大脳基底核と小脳によって記憶されるため 、私たちの筆跡には、無意識のうちに現れる「 書き癖」、つまり一貫した特徴(恒常性)が生まれるのです 。
鑑定人は、この個々人に固有の「恒常性」を見つけることで、筆者を見分けることができます。
驚き!「対照資料なし」の筆跡鑑定
では、いよいよ本題です。もし、鑑定したい文書がたった1枚の「遺言書」しかなかったら?
実は、その1枚の文書だけでも、真贋のヒントを見つけ出すことができます。
そのロジックは、鑑定資料の「内部」にある筆跡の恒常性を分析すること。つまり、同じ文書内に書かれた同じ文字を比較するのです。
【事例】偽造が疑われる遺言書
あなたが筆跡鑑定を依頼したとしましょう。依頼されたのは、故人が書いたとされる1枚の遺言書です。
この遺言書には「遺言」という文字が何度か書かれています。
鑑定人はまず、この2つの「遺言」という文字に注目します。
- 本人が書いた場合
- 本人が書いたものであれば、無意識の「手続き記憶」によって書かれているため、2つの「遺言」には一貫した書き癖が多数見つかります 。
- 例えば、「遺」の字の最終画である「払い」の角度や、筆圧の強弱パターンなど、細かな特徴に驚くほどの一貫性が現れるはずです 。
- 偽造された場合
- 偽造者は、本人の筆跡を意識的に「模倣」しようとします。しかし、これは無意識の運動ではなく、ぎこちない「意識的な作業」です。
- そのため、同じ文書内でも、筆跡に不自然な「ばらつき」が生じます 。
- 具体的な偽筆の兆候:
- 不自然な筆圧の揺れ: 本物の筆跡では一定の箇所で強弱がつく筆圧が、偽造された箇所では不自然に変動したり、強弱のムラが生じます 。
- ぎこちない筆継ぎ(二度書き): 自然な筆記では一気に書き進める部分を、偽筆者は途中でペンを止めたり、線を書き直したりする痕跡を残すことがあります 。
- ストロークの震え: 筆跡を真似ることに集中するあまり、線が硬直したり、細かく震えたりする傾向が見られます 。
この「一貫性の欠如」を科学的に見つけ出すことで、たとえ対照資料がなくても、その筆跡が偽造されたものである可能性を推測できるのです 。
科学の目で見抜く「見えない証拠」
この分析は、単なる肉眼による比較ではありません。
現代の筆跡鑑定は、以下のような科学技術によって裏付けられています 。
- 高精度な顕微鏡解析: 高性能な顕微鏡やマイクロスコープを使用し、肉眼では見えないインクの層の重なりや、筆圧によって紙にできたごくわずかな凹凸を3Dで解析します 。
- 分光分析: 紫外線(UV)や赤外線(IR)を当てて、肉眼では同じに見えるインクでも、その分子構造の違いを検出します。これにより、文書が異なる時期に異なるインクで加筆された形跡を明らかにできます 。
- 数値解析と統計処理: 文字の長さや角度、筆跡のブレといった物理的特徴を数値化し、多変量解析によって客観的に評価します 。
これらの客観的な手法を駆使することで、鑑定人の主観に頼らない、科学的な鑑定が可能になります 。
鑑定精度の飛躍的向上:ダブルチェックの重要性
筆跡鑑定の精度を最大限に高めるには、この「鑑定資料内筆跡の恒常性分析」を、従来の「対照資料との比較」と組み合わせるダブルチェックが非常に有効です。
- 第一段階(恒常性分析): まず、偽造が疑われる文書それ自体に、不自然なばらつきや不統一がないかを徹底的に分析します。ここで偽造の可能性が高いと判断されれば、次の段階に進みます。
- 第二段階(対照資料比較): その上で、本人の筆跡が確認できる対照資料と比較し、鑑定資料の筆跡が本人のものかどうかを検証します。
この二つのアプローチを組み合わせることで、文書が偽造された可能性と、それが特定の人物によって書かれたかという両方を同時に検証することが可能になります。これにより、鑑定結果の信頼性と法的妥当性が大きく向上するのです。


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