今回は、鑑定の信頼性を支える上で最も重要な要素の一つである「個人内変動の範囲」を特定する、必要な共通文字の数(量)についてご説明したいと思います。
個人内変動とは何か?
筆跡鑑定において、私たちは鑑定対象の筆跡と、比較対象となる筆跡が、同一人物によって書かれたものかを判断します。しかし、同じ人物が書いた文字でも、その時々の状況(急いでいる、丁寧に書いている、筆記具が違うなど)によって、形や大きさに微妙な違いが生じます。この違いこそが「個人内変動」です。
伝統的筆跡鑑定法や数値解析法では、この個人内変動の範囲を正確に把握することが、鑑定結果の信頼性を担保する上で不可欠となります。なぜなら、鑑定人が「この筆跡はAさんのものだ」と結論付けるためには、「鑑定対象の筆跡の特徴が、Aさんの筆跡の個人内変動の範囲内に収まっている」という論理的な根拠が必要だからです。
個人内変動の範囲を誤るとどうなるか?
十分な量の共通文字がないまま鑑定を進めると、この個人内変動の範囲を過小評価してしまうリスクがあります。たとえば、以下のような状況を想像してみてください。
【事例】
- 鑑定依頼: 契約書に書かれた「佐藤」という署名が、容疑者のものか鑑定してほしい。
- 比較資料: 容疑者から提出された、過去に書かれた手紙の筆跡。しかし、共通文字の「佐藤」は、その手紙の中にたった2つしかありませんでした。
この場合、鑑定人はたった2つの「佐藤」を元に、容疑者が書く「佐藤」という文字の多様性を判断しなければなりません。もし、その2つの「佐藤」が、容疑者が極めて丁寧に書いた筆跡であった場合、鑑定人はその筆跡を「基準」としてしまいます。
しかし、実際の契約書に書かれた「佐藤」の筆跡が、少し崩れた走り書きであったとします。すると、鑑定人は「基準とした筆跡と異なる」と判断し、「別人による筆跡」という誤った結論を導き出してしまう危険性があるのです。
鑑定書作成における注意点
個人内変動の範囲を正確に特定するためには、十分な量の共通文字を収集し、分析することが不可欠です。以前のブログ記事でご紹介したように、10画以上の漢字であっても、※30個以上の共通文字がなければ、その範囲を正確に決定することは難しいとされています。
鑑定人の皆様におかれましては、鑑定書に「個人内変動の範囲」という言葉を記載する際には、以下の点を改めてご確認ください。
- 共通文字の量: 鑑定の根拠となる共通文字は、十分な量確保できていますか?数が少ない場合は、その旨を鑑定書に明記し、結論の限定性を明確に示してください。
- 多様性の考慮: 丁寧な筆跡だけでなく、走り書きや、異なる筆記具で書かれた筆跡など、多様な状況で書かれた資料を比較することで、個人内変動の範囲をより正確に把握できます。
鑑定結果は、法的な判断に大きな影響を与えます。私たちは、その重責を担う専門家として、常に科学的根拠に基づき、慎重な姿勢で鑑定に臨まなければなりません。今回の内容が、皆様の鑑定実務の一助となれば幸いです。
※参考:「30」という数字の統計的根拠:ブログ記事で言及された「30個以上」という数字は、統計学における「中心極限定理」に基づく経験則として用いられます。これは、特定の計算式から導かれた絶対的な数値ではありませんが、統計的に有意な結論を導き出すための最低限のサンプル数として広く認識されています。
- 中心極限定理: サンプル数が30以上あれば、母集団の分布に左右されず、標本平均の分布が正規分布に近似するという統計の原則です。
- 筆跡鑑定への応用: この原則を筆跡に当てはめると、30個以上の同一文字を分析することで、個々の文字に現れる偶発的なばらつきを排除し、その人物の「個人内変動の範囲」を信頼性をもって推測できるようになります。
結論として、十分な量のデータ(目安として30個以上)を収集することは、筆跡の持つ多様な「顔」を捉え、その本質的な「個性」を科学的に分析するために不可欠であると言えます。


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