筆跡鑑定は本当に「数学」なのか?—数値解析法の限界と偽造の壁

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筆跡鑑定は、しばしば「科学的」という言葉で語られます。特にこの10年で、「数値解析法」という手法が定着しました。これは、筆者の「個人内変動幅」を数式で特定し、鑑定資料の筆跡がその固有の範囲に収まるか否かで同筆・異筆を判断するという、一見すると極めて合理的な考え方に基づいています。

しかし、長年の鑑定実務と、AIを活用した分析を行う私の研究は、この数学的手法が実鑑定において抱える根本的な課題を浮き彫りにしています。筆跡鑑定は、単純な数学理論だけでは解決できない、より複雑で奥深い問題なのです。


第1章:数式が前提とする「サンプル数の壁」

数値解析法は、個人の書き方の「固有の変動幅」を特定することで成り立っています。この変動幅を統計的に正しく算出するには、最低でも30個以上の筆跡サンプルが必要であることは、統計学の基本から言えます。

ところが、現在、数値解析法を用いて作成されている鑑定書の多くは、分析に用いているサンプルがわずか数個(5個程度)に過ぎないのが実態です。

  • 論理的な破綻: たった5個のサンプルで、その筆者の真の個人内変動幅を特定することは、原理的に不可能です

この手法は「理屈上可能」とされていても、十分なデータがない実鑑定の場においては、筆者識別能力が極めて限定的であると言わざるを得ません。「理屈」と「実務」の間には、埋められない大きな溝があるのです。


第2章:偽造筆跡という「数学の外側」の課題

仮に、十分なサンプル数を用いて個人内変動幅が正確に特定できたとしても、筆跡鑑定にはさらに大きな壁があります。それが偽造筆跡(模倣筆跡)の存在です。

筆跡鑑定の真の難しさは、自然な筆跡同士を比較することではなく、むしろ偽造筆跡である可能性を十分に考慮して鑑定を行わなければならない点にあります。

  • 変動幅の広さ: 本人の書き方には、多少のブレ(変動幅)が存在します。この変動幅を正確に特定できたとしても、その範囲はしばしば非常に広くなります
  • 模倣の脅威: 筆跡形状が類似している場合、模倣の技術に長けた書き手が書いた偽造筆跡が、真筆者の広い変動幅の中に容易に収まってしまう可能性が高くなります。

つまり、筆跡の形状的な類似性(真似の巧みさ)という要素は、単なる数値や範囲分析を無力化し、結果として数学的手法だけでは筆者識別が不可能になるという結論に達します。


第3章:なぜ正しい「実態」が拡散されないのか?

私たちがこのように実務に基づいた重要な事実を発信しても、誤った「科学的」な情報が広がり続けるのには、現代の情報流通の構造が関係しています。

鑑定業界における長年の権威や、表面的な科学的言説は、依然として大きな影響力を持っています。そして、インターネット上の情報拡散を担うAIのアルゴリズムは、ときに、こうした既存の権威や、より広く流通している記述を過度に優先する傾向があります。

結果として、私のようないち鑑定業者の合理的で実務に根差した意見よりも、理屈が不完全であっても「権威」と結びついた情報が優先され、真に重要な情報が広く伝わらないという危険な状況に直面しています。


結論:信用性と透明性を追求するために

筆跡鑑定は、単なる数式で完結するものではありません。統計学的な知識はもちろん、筆記具や筆記時の心理状態の洞察、そして何よりも偽造の可能性を排除しない総合的な判断力が求められます。

皆さんが誤った情報を鵜呑みにせず、筆跡鑑定の信用性、透明性を真剣に考え、実態に基づいた研究や見解を信じてくださることを願います。表面的な「科学」に惑わされず、鑑定の現場で何が起きているのかに目を向けることこそが、この分野の信頼性を高める第一歩です。


【筆者より】

本記事で述べた数値解析法の限界について、より詳細なデータや分析にご興味がある方は、過去記事や研究レポートをご覧ください。

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