筆跡鑑定は、「誰が書いたか」を特定する重要な手段です。しかし、「鑑定士の主観ではないか?」と疑問に思う方もいるでしょう。
私たちが提唱する「脳科学的筆跡鑑定法」は、その根拠を脳のメカニズム、特に「手続き記憶」に求めます。なぜこの記憶の仕組みが、従来の鑑定法が持つ主観性や統計的限界を克服し、偽造を見破る揺るぎない証拠になるのか、事例を含めて詳しく解説します。
1. 筆跡の正体:無意識下に刻まれた「手続き記憶」と「恒常性」
手続き記憶とは?
文字を書く行為は、自動車の運転や楽器の演奏と同じく、「手続き記憶(Procedural Memory)」という種類の記憶に分類されます 。これは、反復練習によって体が動きを覚え、意識せずともスムーズに行えるようになる無自覚な運動の記憶です 。
「何という文字を書こうか」と考えるところまでは意識しますが、その後は自動的に文字が書けてしまいます 。この無自覚性が、筆跡鑑定の核心です。
恒常性(一貫性)の誕生
手続き記憶は、脳の小脳や大脳基底核といった運動制御の領域に深く定着します 。このプログラムに従って手が動くため、同じ人物が同じ文字を書けば、その運動の軌道(プロセス)は概ね同じ軌道を辿ります 。
これが、筆跡に現れる「恒常性(一貫性)」です 。恒常性があるからこそ、職場のメモの筆跡から誰が書いたのかがおおよそ分かるのです 。
2. 筆跡個性を構成する二つの要素と鑑定上の重み
脳科学的鑑定法では、この恒常性によって生まれる筆者の個性(筆跡個性)を、「固有の運動軌道」と「書き癖(運動癖)」の総称として分析します 。
| 鑑定上の重み | 定義と役割 | |
| 強い異筆要素 | 筆者が異なる可能性が極めて高いことを示す根拠。固有の運動軌道や恒常的な書き癖の相違がこれにあたります 。 | |
| 強い同筆要素 | 筆者が同一である可能性が極めて高いことを示す根拠。特に希少性の高い書き癖の一致がこれにあたります 。 |
(1) 固有の運動軌道:強い異筆要素の根拠
固有の運動軌道とは、文字を書く際の筆順や字体の構造など、マクロな運動動作の記憶です 。記憶された運動軌道の違いは、強い異筆要素となります。
| 相違の事例 | 運動軌道の違いの解説 |
| 旧字と新字 | 旧字の「者」(「日」の上に点画がある)を記憶している人は、点画を書くという意識はなくとも自動的に点画が書けてしまいます 。旧字と新字の相違は、固有の運動軌道の相違であり、強い異筆要素です 。 |
| 筆順の違い | 異なる筆順は、それぞれ固有の運動軌道の相違となります 。例えば「区」の字の図解にあるように、赤丸で示される運筆の軌跡(第1画→第4画の縦画→第2画→第3画→第4画の横画)が、筆順によって異なります 。 |
| 誤字と正字 | 誤った筆順や字形も同様に、記憶された運動軌道を辿り繰り返されます 。そのため、誤字と正字を混在して書くということは、記憶された運動軌道を辿るという手続き記憶の科学に反することになります 。 |

(2) 書き癖(運動癖):鑑定を決定づける微細なサイン
書き癖とは、手続き記憶による運動軌道内に出現する、固有の「運動癖」が可視化されたものです 。無自覚な筆記の中で「そのように動く傾向が強く出現する」という、強く固定化された運動動作です 。
この書き癖の分析が、筆者識別の精度を決定づけます。
【事例:大木順子氏(仮名)の書き癖】

図:恒常的に出現する書き癖の事例 九州地方23歳 大木順子氏(仮名)の筆跡例です 。特に着目すべきは、〇印で囲まれた微細な箇所です 。
- 青丸(b)の部分:第1画と第2画を連続運筆する恒常的に出現する書き癖の相違は、強い異筆要素となります 。
- 赤丸(a)の部分:第3画と第4画の終筆部を僅かに下に撥ねるという恒常的に出現する、「拡大し指摘して初めて気が付くような箇所」且つ「希少性のある(高い)」箇所の一致は、強い同筆要素となります 。この微細な癖の一致こそが、筆者識別の強力な証拠となるのです。
3. 究極の結論:偽造者が招く「恒常性の崩れ」
脳科学的鑑定法の最大の強みは、偽造者がこの無意識の恒常性を絶対に真似できないという点にあります 。
偽造が恒常性を破壊するメカニズム
筆跡を偽造する者は、お手本を視覚で「意識的に」真似ようとします 。
この意識的な介入は、無意識で発動するはずの筆者固有の手続き記憶による運動プログラムを一時的に阻害し、破壊します 。つまり、脳に深く刻まれた無意識(手続き記憶)**と、**偽造者の意識(模倣)が衝突するのです。
結論:筆跡の真偽を分けるサイン
その結果、偽造筆跡には、本人の筆跡には見られない不自然な線の乱れ、運筆のぎこちなさ、あるいは筆圧の不安定さといった「恒常性の崩れ」が発生します 。
手続き記憶の知見が重要である理由は、無意識の運動プログラムの軌跡(恒常性)を科学的根拠と定めることで、偽造者による意識的な模倣の破綻を、科学的な指標を用いて高精度で検知できる点に集約されます 。


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