我慢の限界だ

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余りにも馬鹿げた裁判結果が後を絶たず,ブログさえも書く気力も失せていた。今なお酷い状況が続いている。

遺言書の偽造や署名の偽造は数多く存在している。そのほとんどが真筆とされている。親族が怪しいと思っている筆跡が,筆跡鑑定を軽視された結果「本人の真筆」という判決が出されている。その中には、誰が見ても全く異なる筆跡すらも同筆と判断されている。これでは,被告が怒り出すのも当然だ。

よく,鑑定人のブログに「○○裁判所で勝訴」と自慢げに語っているが,それは「本人筆跡である」という鑑定結果を出したからである。人の筆である」とした鑑定書は端から不利な状況に置かれ,裁判所も「本人筆跡」という判決を出す傾向にある。言わずもがな同筆と結論された鑑定書が勝訴判決と一致するという当たり前のことだ。

「父親の筆跡とは全然違う」と思い,それを当研究所に依頼し「別人の筆跡」と判断されても,判決で真筆と判断されれば落胆する気持ちは計り知れない。とりわけ,両親の筆跡は見慣れており強い確信があるのだ。そんなことが赤の他人が分かるはずがない。

最大の問題点とは,これまでの筆跡鑑定人が理論の破綻した手法によって作成された鑑定書が,裁判所に大量に提出されていることにある。それを読んだ裁判官が,こんな稚拙な内容では鑑定書の意味がないと判断されているのだ。

ご存じの通り,裁判所は判例主義でありそれが重視される。筆者識別ができない伝統的筆跡鑑定法のみに通用する「証明力に限界」という判決が定型文のように次々に出され,それが判例となって筆跡鑑定の評価がますます低下するという悪循環に陥っている。これは,筆跡鑑定の証拠能力そのものが低いのではなく「伝統的筆跡鑑定法」の証拠能力が低いことにあるが誰も気づいていない。

ところが,多くの裁判官は当職が採用している筆跡鑑定法を理解する気もなく,筆跡鑑定は「どこも一緒」「筆跡鑑定とはそういうもの」という強固な固定観念に束縛され続けている。

その証拠に,判決文には当職の鑑定書に対し「伝統的筆跡鑑定法」に対する意見が書かれている。お分かりのように,当職は「伝統的筆跡鑑定法」では筆者識別はできないといっているのに,この手法で意見されることがどのくらい悔しいかお分かりいただけるであろう。的外れもいいところだ。裁判官は当職よりも優秀な筆跡鑑定人であるとでもいうのであろうか。

私には,他の鑑定人にない稀有な鑑定力がある。信じなくても構わないが,多くの依頼人はそれを知っている。「殺人」を示唆した怪文書を,筆跡鑑定によって警察の指紋鑑定よりも早く事件解決した実績もある。依頼人は筆跡鑑定がこんなにも信用力があることにびっくりしていたことを鮮明に記憶している。これまで多くの経験を積んできた当職の鑑定技術から,誤った鑑定はしないという強い自信もある。このような稀有な才能があるからこそ,このようなブログも書けるし不当な判決に全力で闘うこともできる。だからこそ,これまでの証拠能力の低いと言われているのは「伝統的筆跡鑑定法をはじめとする類似鑑定法」であり,正しい筆跡鑑定の証拠能力は高いということを証明できると思っているのだ。

このような理不尽な判断によって裁判が不利になられた方は大勢いらっしゃると思う。きっと、悔しくて涙を流しているに違いない。今の裁判や鑑定書の結論は圧倒的に「同一人の筆跡」となりやすい。諦めるのはまだ早い。それには,共に闘う強い味方が必要である。このような理不尽さに押し潰れそうな方,ストレスや身体的,肉体的な疲弊が蓄積されている方,当職と共に一緒に闘っていこうではありませんか。

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