筆跡鑑定のプロが経験した、あまりにも悔しい遺言書裁判の実例

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筆跡鑑定の専門家として、これまで数多くの筆跡を鑑定し、真贋を見極めてきました。その中でも、特に悔しい思いをしたのが、遺言書の無効確認訴訟に関わったある実例です。

司法関係者の方であれば、「筆跡鑑定よりも状況証拠の方が証拠能力が高い」という裁判所の考え方はご存知かもしれません。「そんなこと当たり前」「筆跡鑑定で筆者識別が100%できるわけではない」と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、長年の経験から、この「当たり前」とされる考え方が、いかに私たちの常識を縛り、真実を見えにくくしているかを痛感しています。


「どう見ても偽造」の筆跡が、「真筆」と判断された衝撃

数年前、ある方から遺言無効訴訟の筆跡鑑定を依頼されました。下の図は、その時の遺言書の一部です。

この遺言書は、私から見れば明らかに偽造筆跡でした。なぜなら、以下の決定的な根拠があったからです。

  1. 不自然な「加筆」の多さ: 鑑定資料(遺言書)の「★」の箇所には、隙間を埋めるための多数の加筆が見られました。一箇所だけであれば書き損じの修正も考えられますが、あらゆる箇所に出現しているのは極めて不自然です。
  2. 全く異なる「筆順」: 最も決定的なのは、文字の筆順が完全に異なっていた点です。
    • 鑑定資料の筆跡の筆順で書くと、第4画の転折部に隙間が生じます。これは、正しくない筆順で書かれた典型的な特徴です。
    • 一方、本人の筆跡(対照資料)は、上図上段「筆順⑴」の通りの正しい筆順で書かれており、隙間は生じません。
    通常、「区」の字は4画で書かれますが、鑑定資料の筆跡は第4画を縦画と横画に分けて書いているため、5画になっています。無自覚に書く筆順が、時と場合によって全く異なるということはあり得ません。文字を書く行為は「手続き記憶」と深く関連しており、無意識のうちに習慣化された筆順で書かれるものです。

これほど明確な偽造の証拠がありながら、「これで偽造でなければ筆跡鑑定人を今日から辞めても構わない」と断言できるレベルの、「超」が付くほど簡単な偽造筆跡でした。


筆跡鑑定の「証明力」に対する、裁判所の壁

しかし、この明らかな偽造筆跡は、東京地裁・東京高裁の二審ですら「真筆」と判断されてしまいました。その背景には、平成12年10月26日の東京高裁判決が示すような、筆跡鑑定に対する裁判所の見解があります。

「筆跡の鑑定は、科学的な検証を経ていないというその性質上、その証明力には限界があり、特に異なる者の筆になる旨を積極的に言う鑑定の証明力については、疑問が多い。したがって、筆跡鑑定には、他に優越するような証拠価値が一般にあるのではないことに留意して、事案の総合的な分析検討をゆるがせにすることはできない。」

もちろん、鑑定書にはこれ以外にも多くの重要な証拠を盛り込んでいました。しかし、裁判所は「筆跡鑑定は、他に優越するような証拠価値が一般にあるのではない」という前提に立ち、この明白な証拠を軽視したのです。その結果、数億円を受け取る権利と財産を失った依頼人の方の無念は、想像に難くありません。


「稚拙な鑑定書」が招いた、筆跡鑑定への不信

このような不当な判決が下される背景には、残念ながら、過去に提出された「稚拙な鑑定書」が積み重なり、裁判所が「筆跡鑑定とはこういうもの」「筆跡鑑定はどこも一緒」という誤ったレッテルを貼ってしまったことがあると考えています。

私は「多くの筆跡鑑定人は筆跡鑑定ができない」と、あえて厳しい言葉で発言することがあります。それは、このような理不尽な事態が二度と起こらないようにするためです。他の鑑定人を貶める意図ではなく、筆跡鑑定の信頼性そのものに関わる大きな問題に対し、一専門家として看過できないという強い思いがあるからです。

この経験は、「偽造した者勝ち」を助長する不当な判決であり、裁判所が筆跡鑑定の専門性と重要性を正しく評価しない限り、同様の悲劇が繰り返されることを痛感させるものでした。


筆跡鑑定は、単なる比較ではありません。文字が書かれる際の筆者の無意識の癖、筆順、運筆の特性、そしてそれらがどのように「手続き記憶」として定着しているかなど、多岐にわたる専門知識と経験が必要です。当研究所では、科学的根拠に基づいた精緻な鑑定によって、真実を明らかにし、依頼人の権利を守るために全力を尽くしています。

今回のケースは、筆跡鑑定の真の価値が理解されていない現状を浮き彫りにしました。この経験を教訓に、今後も筆跡鑑定の重要性と専門性を社会に訴え続けていきたいと考えています。

あなたの周りにも、筆跡の真贋で悩んでいる方はいませんか? 些細なことでも、お気軽にご相談ください。

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