偽造か、病状による変化か
― 「震えていたから字が違う」は、どこまで通るのか
遺言書の筆跡が争われるとき、最も多く持ち出される反論が「病気や高齢で手が震えていたから、字が違って見えるだけだ」というものです。この主張は、どこまでが正しく、どこからが通らないのか。BSHAM®は、この問いに「揺らぎ」と「筆跡個性」を分けることで答えます。
形が違うことには、二つの意味がある
人の筆跡には、性質のまったく異なる二つの要素が同居しています。
筆跡個性 ― 反復するもの
同じ人が何度書いても同じように現れる運動の型。脳が定着させた運動のプログラムであり、書き手自身も自覚していません。筆者を識別できるのは、この部分だけです。
揺らぎ ― 書くたびに変わるもの
その日の体調・姿勢・筆記具・緊張などで変わる、その場限りのばらつき。手の震えや乱れは、この揺らぎが大きくなった状態です。誰にでもあり、筆者の識別には使えません。
ここが決定的な分かれ目です。病気や加齢によって起きるのは、揺らぎが大きくなることであって、運動のプログラムそのものが別のものに入れ替わることではありません。震える手で書かれた字は、線が乱れ、形が崩れます。しかしその下では、以前と同じ運動の型が働いています。
ところが、形だけを見ると、この二つはどちらも「形が違う」としか映りません。加齢で揺らぎが増えただけの筆跡と、そもそも別人が書いた筆跡が、同じ「相違」に見えてしまう。だから形の類似を中心にする鑑定は、「加齢による変化です」という説明も、「加齢のせいで違って見えるだけです」という反論も、どちらも排除できません。両方向に開いた扉を、どちらも閉じられないのです。
実際の記録では、どうだったか
当研究所は、過去の鑑定資料からこの点を数え直しています。鑑定書に「震え」「振戦」の記載がある事案を切り出すと16事案が該当しますが、その16事案すべてで、反復する筆跡個性を認定できていました(計210箇所)。震えのために筆跡個性が特定できなかった事案は、一つもありません。
さらに、その箇所が資料をまたいで保たれていたかを見ると、ずれのあった箇所は30。震えの記載がない59事案(839箇所)では171でした。割合にすると、震えのある群のほうがむしろ低いという結果です。手が震えることは、その下で働いている運動の反復を消してしまいはしません。
母数と抽出条件、この分け方の限界は「検証の記録」に公開しています。
「高齢だから変わって当然」は、順序が逆です
運動のプログラムが本当に書き換わるには、違う動きを大量に反復する必要があります。経験上、反復性が変わるほどの変化には10年以上を要する場合が多く、そして日常的に文字を書く機会が減った高齢の方には、書き換えに必要な反復量がありません。つまり高齢であることは、筆跡個性が変わりやすい理由ではなく、むしろ変わりにくい理由です。変わっているのは、その上に乗る揺らぎの大きさのほうです。
同じ理由から、変わりやすさは文字ごとにも違います。住所や氏名のように繰り返し書いてきた文字は書き換わる余地がありますが、めったに書かない文字ほど、以前の癖をそのまま保ちます。ですから「加齢で筆跡が変わった」という包括的な主張に対しては、どの文字について、どれだけ書く機会があったことを前提にそう言えるのかを問うことができます。同じ人の資料の中でも、文字によって安定度は違うからです。
「そもそも書けたのか」という問い ― 能力監査
病状が重かった事案では、そもそもその文書を書く行為が可能だったのかが争点になります。ここでBSHAM®は、本人の残存能力を医学的に測ることでは答えません。鑑定人は医師ではなく、当時の本人の状態を診断することはできないからです。
代わりに、基準を健常者に置き換えます。①文書が存在する以上、一定の書字行為(紙の固定・姿勢の保持・連続した運筆)が実際に行われたはずである。②その行為が、再構成された場面では健常な人にとってさえ難しいことを、まず確かめる。③対象の方は、健常の水準を下回る状態にあった。④ゆえに、なおさら書けない――。
推論の重心は③(本人の状態)ではなく②(健常者でも難しい)にあります。②は誰でも確かめられる物理の命題ですから、医学的な認定を必要としません。「鑑定人は医師ではない」という批判も、この構造には当たりません。診断を含まないからです。
では、何をもって偽造と判断するのか
揺らぎでは説明できない現象が二つあります。
① 反復性の崩壊
対照資料では安定して繰り返されている癖が、鑑定資料では型を成さずに崩れている状態です。他人の字を真似て書けば、うまく真似できた箇所とそうでない箇所が生じるため、本来なら安定するはずの運動がこのように崩れます。
② 排他的交差反復性
鑑定資料に、本人には現れないはずの別の癖が安定して現れている状態です。無自覚に書かれる筆跡の同じ箇所に、二種類の癖が安定して成立することは考えられません。書き手が別人であることを強く示す構造です。
いずれも、震えや乱れとは水準の違う現象です。揺らぎは方向が定まらずばらつきますが、これらは別の方向に安定している点が決定的に異なります。
病状を理由に、偽造を疑うのではありません
誤解のないよう申し添えます。当研究所は「病気だったから偽造だ」とは考えません。順序は逆で、病状による変化で説明できる範囲を先に確定し、それでも説明が尽きない現象が残るかどうかを見ます。説明が尽きるなら、それは本人の筆跡です。当研究所の鑑定で「本人の筆跡である」という結論に至る事案も、少なくありません。
相手方から「加齢による変化だ」と主張されている代理人の方は「弁護士・法務担当者専用資料室」に、方法論の全体像は「BSHAM®とは」にまとめています。


