筆跡鑑定は対照資料で決まる
― 4〜5件に1件で、他人の筆跡を検出している
筆跡鑑定というと、疑われている文書――遺言書や契約書――をどう調べるかに関心が集まります。しかし実務で深刻な問題が潜んでいるのは、多くの場合その反対側、つまり「本人の筆跡」として提出される対照資料のほうです。
鑑定の失敗は、対照資料から始まる
当研究所は、すべての依頼で、比較を始める前に対照資料そのものを監査しています。その結果は意外なものです。
当研究所がこれまで監査してきた事案のうち、おおむね4〜5件に1件で、対照資料の中に他人の筆跡が混じっていることを検出しています。
※この数字は「検出できた割合」であって、混入率という精度ではありません。ある資料が本当に本人のものかを最終的に知り得るのは本人だけである以上、混入率そのものを正確な数値として示すことは、どの鑑定人にもできません。見逃されている混入があり得る以上、実際の混入は少なくともこの程度はある――そう読んでいただくのが正確です。また当研究所は、依頼者に「本人の筆跡だろうと思われるものまで、なるべく多く」の提出をお願いしています。広く集めるほど混入の機会も増えますから、この数字にはその方針の効果も含まれています。
依頼者にお尋ねすると、返ってくる答えのほとんどは「そうかもしれません」――つまり、依頼者自身も気づかないまま提出しているのです。それでも広く集めていただくのは、資料は1枚でも多いほうが判定の材料が増えるからです。そして、混じったものを選り分けるのは監査の仕事だからです。
なぜ混じるのか
理由は単純で、対照資料は本人の死後や紛争発生後に、家族が手分けして集めることが多いからです。家計簿の一部を配偶者が書いていた。宛名書きを子が代筆していた。メモ帳に複数人の書き込みが混在していた。悪意のない、ごく自然な経緯で他人の筆跡が紛れ込みます。
そして重要なのは、紛れ込むのは「本人の字に似ている筆跡」だけだということです。明らかに違う字なら、集める段階で家族がはじいています。対照資料に残るのは、外形のふるいを通過した筆跡だけなのです。
意図的に混ぜられる場合もある
混入は、偶然によるものだけとは限りません。争っている一方の当事者が、本人の筆跡ではない資料を対照資料として提出すれば、比較の基準そのものを動かすことができます。基準が動けば、そこから導かれる結論も動きます。理論上の可能性ではなく、実際に起こり得ることです。
※本項は、特定の事件における特定の当事者の行為を推認するものではありません。対照資料の同一筆者性を「与えられた前提」として扱うことが、なぜ危ういのかを説明するためのものです。
混入は鑑定の何を壊すか
対照資料は、鑑定において「本人の書き方」を映し出す基準です。本来この基準群は、ただ一人の書き手の運動プログラムだけからできているはずです。そこに他人の筆跡が混じると、ひとりの手の中にはあり得ないはずの、別の反復構造が基準群に持ち込まれます。すると、鑑定資料との間に相容れない反復の対立(排他的交差反復性)があるか、反復構造が崩れているか――偽造を見抜くために見るべきこの構造そのものが、汚染された基準の上では正しく見えなくなります。誤った結論が、汚染された土台の上に築かれるのです。
さらに構造的な問題があります。先に述べたとおり、混入筆跡は本人の字に外形が似ているからこそ紛れ込んでいます。ということは、文字の形の類似を判断の基盤とする鑑定は、混入をまさに検出できない条件でしか混入に出会いません。対照資料が全部本人の筆跡だという前提を、形の比較という自らの方法では確かめられない――前提を借りたまま、その上に結論を積むことになります。
実際の訴訟でも、対照資料の同一筆者性が争点として顧みられないまま、鑑定と判決が積み上がっていく例は珍しくありません。土台の監査を欠いた結論は、どれほど整った体裁でも、砂上にあります。
当研究所の対応:全資料監査の原則
当研究所の理論(BSHAM®総論6-4の2)は、この問題に一つの原則で応えています。比較に用いるすべての資料は、比較に先立ち、同一の理論に基づく監査を通過しなければならない――疑われている文書だけでなく、対照資料もです。
監査の論理は明快です。同一人の筆跡だけからなる資料の集まりの中には、互いに相容れない安定した癖の構造が対立して現れることはあり得ません。もし対照資料の内部にそのような対立が見つかれば、それは「この資料群には複数の書き手が混じっている」ことの徴表です。見つかった資料は対照資料から除外し、除外の根拠を鑑定書に明記します。
この監査にも、限界があります
過去には、毛筆で書く習慣のあった方の硬筆の筆跡を、他人の筆跡と見誤りかけた例がありました。書く道具や様式が変わると、同じ人の筆跡でも見かけの構造が変わることがあるからです。
だからこそ現在の手順では、除外の判定の前に、様式・筆記具・書字条件の違いで説明できないかを必ず先に検討することを定めています。誤り得ることを認め、誤りを防ぐ手順を理論に組み込む――検証可能な鑑定とは、そういうものだと考えています。
依頼をお考えの方へ:対照資料を集めるときの注意
- 「確実に本人が書いた」と言い切れるものを優先してください(本人の署名入りの申請書類、本人しか書き得ない日記など)
- 家計簿・住所録・メモ帳は、家族の書き込みが混じりやすい代表例です。混じっている可能性があっても構いません――そのまま提出してください。どれが混入かを選り分けるのは監査の仕事です
- 「これは違うかもしれない」という資料を、ご自身の判断で除かないでください。判断の過程ごと開示することが、鑑定の証拠力になります
- 1枚しかない資料にも価値があります。たった1枚からでも、筆順の違い、誤字や字体の癖(誤字・正字の使い分け)など、判定に使える発見が得られることがあります。量が少ないからと諦めず、あるものをすべてお出しください
対照資料の監査は、当研究所ではすべての依頼で標準の工程です。追加のご依頼やご料金は必要ありません。
関連:監査の理論的な位置づけは「BSHAM®とは(対照資料監査)」に、相手方鑑定人への尋問での使い方は「弁護士・法務担当者専用資料室」に、実データの記録は「検証の記録」にあります。
資料が本人のものかどうかも含めて、こちらで確認します。
まずは、鑑定できる案件かどうかからお答えします。


