筆跡鑑定で騙されないために:経年変化と「手続き記憶」の真実

所長コラム

筆跡鑑定は、しばしば指紋のように不変なものだと誤解されがちです。しかし、人の筆跡は時間の経過と共に変化します。この変化を正しく理解しなければ、鑑定結果を見誤る可能性があります。その鍵となるのが、脳の働きと深く関わる「手続き記憶(procedural memory)」という概念です。


筆跡が変化する3つの要因

筆跡が変化する原因は、主に以下の3つに分けられます。

1. 身体状況の変化

加齢や病気による身体的な変化は、筆跡に影響を与えます。例えば、手の震えや筆圧の低下などが見られることがあります。しかし、これは単なる年齢の問題ではありません。個人差が非常に大きく、90歳を超えても安定した文字を書く方がいる一方で、若い方でも病気や怪我で一時的に筆跡が乱れることもあります。

2. 感情の変化

急いでいる時や、感情が高ぶっている時に書く文字は、普段とは異なる傾向があります。いわゆる「走り書き」や「殴り書き」です。これは一時的なものであり、長期的な経年変化とは区別されます。

3. 本当の経年変化:手続き記憶による上書き

多くの人が経験する「本当の経年変化」は、手続き記憶という脳の働きに深く関連しています。手続き記憶は、自転車の乗り方や楽器の演奏など、体で覚えた一連の動作に関する記憶で、比較的長く保持されることが知られています。

文字を書くという行為は、この手続き記憶に強く依存しています。私たちは幼い頃、漢字ドリルなどで何度も繰り返し文字を書き、その形と書き方を体で覚えました。

筆跡が変化するのは、この手続き記憶が「上書き」されるからです。例えば、「この文字は第一画を長く書いた方がバランスがいい」と意識的に、あるいは無意識的に感じ、新しい書き方を繰り返し練習すると、古い書き方の記憶は少しずつ新しいものに置き換わっていきます。これは、ゴルフのスイングをプロに教わっても、長年の癖がすぐには直らないのと同じ原理です。体に染みついた手続き記憶は強固ですが、繰り返し練習することで徐々に書き換えられていきます。

この原理から、日常的に頻繁に書く文字や部首(自分の署名や「人偏」など)は、経年変化が起こりやすくなります。一方で、あまり書く機会のない文字は、手続き記憶が上書きされる機会が少ないため、変化が起こりにくい傾向があります。


「10年で筆跡が変わる」は根拠がない

「筆跡は10年で変化する」という説を耳にすることがありますが、これは科学的な根拠に乏しい考え方です。筆跡の経年変化には大きな個人差があります。

  • 文字を書く頻度が多い人(例:第一線で働くビジネスマン)は、手続き記憶が上書きされる機会が多く、変化も大きくなりがちです。
  • 文字を書く機会が減った人(例:高齢者や引退した人)は、身体的な変化を除けば、筆跡の変化が少なくなる傾向があります。

これは、肉体労働と頭脳労働でも同様に、文字を書く頻度や方法によって筆跡の安定性に違いが生じる可能性があることを示唆しています。


筆跡鑑定の正しいアプローチ

これらの事実から、筆跡鑑定を行う際は、安易に「10年」といった期間で区切るべきではありません。たとえ30年前の資料であっても、筆跡の経年変化が小さいと判断できるケースは十分にあり得ます。

筆跡の鑑定では、以下のような多角的な視点から、総合的に判断することが不可欠です。

  • 複数の筆跡資料の比較: 新しい筆跡と古い筆跡を比較し、経年変化が大きいか小さいかを詳細に調査する。
  • 筆順や特徴の分析: 文字全体だけでなく、個々の筆順や筆圧、字画のつながりなど、具体的な特徴を綿密に比較する。
  • 背景情報の考慮: 筆者が文字を書く頻度や健康状態など、変化に影響を与えうる要因を考慮に入れる。

筆跡鑑定を依頼する際は、こうした多角的な視点から慎重に分析してくれる専門家を選ぶことが、正確な鑑定結果を得るための重要なポイントとなります。

【筆跡鑑定の「不都合な真実」を知りたい方へ】

本記事でも触れた、法廷における筆跡鑑定の証拠価値が著しく低い現実や、科学的根拠のない「でたらめな鑑定」が業界に横行している実態については、拙著『筆跡鑑定をダメにした知ったかぶりの輩たち』にて詳細に告発しています。
なぜ従来の鑑定法が裁判で通用しないのか、その構造的な闇と実務の実情を知りたい方は、本書をご参照ください。

Amazonで詳細を見る

所長コラム

【業界の不正を断つ、科学的根拠】

鑑定業界の倫理的課題と、それを根本から解決する当所の「脳科学的筆跡鑑定法(BSHAM™)」の論理的・統計的根拠は、こちらの専門ページで詳しく公開しています。

科学的証明・研究報告ページはこちら