3年前の熱狂を覚えていますか?
あのお茶の間を騒がせた「紀州のドンファン事件」。 事件当時、テレビのワイドショーや有名週刊誌(例えば『フライデー』など)が、連日のように遺言書の真偽について特集を組んでいたのを覚えているでしょうか。
メディアはこぞって「専門家」を呼び、紙面で大々的な鑑定を行いました。 そこには、
「〇〇協会」という、いかにも権威がありそうな名称の団体に所属する人物や、 「筆跡鑑定に関する専門書を複数出版している大学教授」
などが登場し、もっともらしい解説を繰り広げていました。
メディア側は、その人物個人の実力を科学的に検証することなく、ただ「協会」という立派な看板の響きを「権威」と勘違いし、彼らの言葉をそのまま掲載しました。 そして、世間も「テレビや雑誌に出ている有名な先生たちなのだから、正しいのだろう」と信じてしまったのです。
そして3年後、司法が下した「残酷な答え」
しかし、事件から約3年が経ち、和歌山地裁が下した判決は、当時のメディアの熱狂とは真逆のものでした。
あれだけメディアが持ち上げ、権威として扱っていた彼らの鑑定手法(経験と勘に基づく従来の手法)は、判決文において事実上、採用されなかった(排斥された)のです。
裁判所は、彼らが声高に主張していた「似ている・似ていない」という主観的な議論に見向きもしませんでした。 代わりに司法が選んだのは、「ブレ(変動)を考慮した論理的な分析」や「物理的な痕跡の検証」といった、メディア受けはしないが、科学的に筋の通ったロジックでした。
「メディアの権威」≠「司法の証拠能力」
この事実は、私たちに「業界の不都合な真実」を突きつけています。
それは、「メディアへの露出度」や「肩書きの立派さ」、「出版物の多さ」といったものは、法廷での「証拠能力」とは何の関係もない、という現実です。
週刊誌の記者は、話題性のあるコメントをくれる「権威」を求めます。しかし、裁判官は、真実を解明するための「論理」を求めます。この両者の基準は、決定的に乖離しているのです。
あなたがもし、筆跡鑑定を依頼しようと考えた時、Google検索で上位に出てくる「老舗」や、メディアで見たことのある「有名人」を選ぼうとしていませんか?
もしそうなら、一度立ち止まって考えてみてください。 「その人は、3年前の雑誌の中ではスターだったかもしれないが、今の法廷で戦える武器(ロジック)を持っているだろうか?」と。
時代は変わりました。 メディアが作った虚像の権威ではなく、司法が認めた本物の科学を見極める目が、今、依頼者自身に求められているのです。



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